ロンドン生活ブログ。音楽のこと、ファッションのこと、ピアノのレッスンのこと、その他雑感、クラシックな物事が好きな夫婦のフツウの話。
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28.Mar.2024
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ヨハン・セバスチャン・バッハ。
略してJ.S.Bach。
イギリスではバックと言います。

生まれは1675年、二人の妻との間に総勢20人の子を授かる。
そのうち何人もが音楽家になっているあたり、やはり才能は受け継がれるのでしょう。
50歳の時に生まれた第11子が、後にイギリスで女王に贔屓にされ、イングランドバッハとかロンドンバッハとか呼ばれる、ヨハン・クリスチャン・バッハです。略してJ.C.Bach。
この人はモーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えた人で、音楽史上重要な人物です。


うっかり息子の話になってしまいましたが、なんといっても、お父さんバッハこそが、ちまたで大バッハと呼ばれる、あの白いカツラの偉大な人です。
この人の音楽をいろいろ演奏してみて、聴いてみて、語ってみたところで、結局最後に言える言葉はいつも、
「天才だね」
これです。
彼の膨大な作品を、1曲でも多く聴いてみることをオススメします。


さて、週刊classicvol.17は、バッハのカンタータ第147番「心と口と行いと生活で」より、「主よ、人の望みの喜びよ」というコラールです。
このコラールだけがものすごい人気を得て一人歩きしておりますが、実際は全10曲でひとつの物語を成すのです。

この「主よ、人の望みの喜びよ」というのは、ドイツ語のコラールから英語の誤訳が出来て、それが和訳されてそのまま定着してしまったようです。
正しくは、「イエスよ、わが魂の喜びよ」。


知れば知るほど面白い曲ですね。


バッハの演奏といえば、この巨匠を真っ先に挙げずにはいられません、その名もカール・リヒター。
いろんなカンタータが入っていますので、是非出勤のお供に・・・。


新世紀エヴァンゲリオンでは、バッハの曲がよく使われていたようですね、見たことないんですが・・・。


ジョージ・ウィンストンは、カノンの時もオススメしましたが、独特のアレンジがほんとうにいいです。
真っ白に光る雪の下から緑の新芽がちくっと顔を出しているようです。
全曲試聴できます。JOYというタイトルになっています。→


無宗教の私。
しかしクラシックは神々しさとか敬虔さとか抜きには語れないのですね。

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22.Oct.2006
天国の歌。
週刊classic vol.16では、フォーレのレクイエムの中から、ピエ・イェズを取り上げました。

この曲をはじめて聴いたのは、キャスリン・バトルというアメリカのソプラノ歌手のソロだったのですが、彼女のウリである透き通る声に、しばし呆然と聴き惚れた記憶がございます。
平和で崇高で甘美で、いわゆるあの世の理想的な図が浮かんでくるような・・・、それでいて変にメルヘンタッチではない~。
およそ宗教曲の持つ重い感じがなくて、心は虹色の世界に羽ばたいていくような感じです。
「死とは永遠の開放、喜び」と言ったフォーレの死生観がよく表れていていますね。

死にもいろいろあるけれど、確かにこういう風に死んでいける人は幸せだろうと思うし、誰かの死もこういう風に送り出してあげたい・・・と思います。

当時の宗教とか時代背景とか現代っ子の私には本当のところは分かりませんが、従来の伝統を打ち破って、ドンッと新しいモノで勝負する人って、ほんとうにすごいと思います。良かれ悪かれ脱帽です!

かなりやんちゃですね、フォーレは。
センスのいいやんちゃです。    

     
イギリスのウィンチェスター大聖堂聖歌隊は有名なのです。→
 

←これが例のキャスリン・バトルの歌です。


昨日8日付け発行の週刊classic vol.15では、オペラ「カルメン」をとりあげて、簡単にあらすじなど説明してみました。

私がはじめてカルメンを見たのは、小学校低学年くらいの時、友達のバレエの発表会でした。
細部はうろ覚えで、ストーリーもちゃんとは把握していなかったような気もするんですが、カルメンの激しい情熱やら踊りやらが強烈なイメージとして子供心にビリッと焼き付けられました。

当たり前ですが、バレエの舞台では、自分が幼少時から経験していたピアノの発表会とはいろんな点で違いがあって驚きでした。
舞台裏で超濃厚な舞台メイクを見るのもはじめてで、じろじろ見てしまいました。
カルメン役のそのバレエ教室の先生が(確か結構年配でしたよ)、客演の若い男性ダンサーとほっぺを摺り寄せて床をごろごろしながら迫真の愛の演技をする様にはあまりにも驚き過ぎて、ストーリーと関係ないことまでごちゃごちゃ考えてしまいました。


そういう意味でも、あれは非常にエキサイティングなカルメンデビューでした。


カルメンはインドが起源のヒターナ、いわゆるジプシーですから、黒髪に小麦の肌で、きりりとりりしい眉毛にばっさり長い睫毛、気性も激しく、ある意味やまとなでしことは対極をいくタイプですね。
それを舞台で日本人が演じるとなると、これは半端じゃなく難しいでしょうね。
渡英してすぐハウスメイトだったスペイン人とスロバキア人とナイトクラブに出かけた折、踊りだした彼女達に、「カルメンか!」とひとり心中でつっこみましたから。
その横で盆踊りノリの私とは、もう腰つき、手つき、表情からして違い、そんなところで異国情緒に浸っていた夜でした。
carmenbizet carmen
さて、左のカルメンはホセ役が三大テノールのドミンゴ。指揮が巨匠カルロス・クライバーのこのカルメンは、いわゆる正統派オペラらしいカルメン。
ビゼーの音楽は忘れて、メリメの原作から映画を起こしたのが右の「カルメン」(2003)。ホセが美男子ということで、美しい男の悲劇の物語という感じ。


比較して見てみると面白いと思うし、解釈の違いに加えて、オペラって何なのかとか、舞台芸術とは?みたいないろんな考えが浮かんでくると思います。
2回にわたって週刊classicでオペラを取り上げました。
オペラというのはクラシック音楽の中でも演劇の要素が入るという特殊なジャンルです。オペラ歌手は俳優さながらの演技を求められます。
そこで出てくるのが、オペラは歌の素養と舞台人の素養とどっちを優先すべしか、と議論され尽くされてまだなお答えの得られない問題ですね。簡単に言えば、世にもルックスのアウチな天才歌手が絶世の美女役を演じていいのかどうかというところですね。

1853年イタリアの作曲家ベルディのオペラ「椿姫」が初演された時、高級娼婦ヴィオレッタが肺を患って憔悴の末息絶えるシーンで、こともあろうに巨大なソプラノ歌手が地響き立てて倒れたのでブーイングの嵐だったとか何とかいうのは有名な話です。

私はとてつもなく不細工だけど美しい声をしたトゥーランドットと、美人で音痴な椿姫を両方見たことがありますが、どっちもムズムズして楽しめませんでしたが、やっぱり音痴は絶対許せないので、それならルックスは少々目をつぶろうか・・・と究極の結論を出しました。


当代きっての椿姫役といえば、ルックスも歌唱力も両方一流に兼ね備えたディーバ、アンジェラ・ゲオルギュー。聞かせて見せての両面から観客を満足させないと今や認められない時代になってきたのではないでしょうか。
このアンジェラ・ゲオルギュー、夫であるこれまた人気のテナー、ロバート・アラーニャとともに、昨夜ロンドンのハイドパークで行なわれたBBCプロムスインザパークに登場しました。
アルバートホールの中で行なわれている本家本元のプロムスラストナイトコンサートを訪れる聴衆と違って、この広大なパークを埋め尽くす人々はどちらかというとお祭り好きのピクニック気分の団体なので、仮設アリーナで繰り広げられるコンサートはpops交じりの軽快な選曲です。
ゲオルギューは得意のカルメンよりハバネラを華やかに歌い上げて、どんちゃん騒ぎの聴衆を盛り上げました。歌の実力もさることながら、こういう舞台ではやっぱりルックスがゴージャスな方が映えるもんですね。

それにしても4時からゲートの前で待ち、11時まで公園で夜のピクニックを楽しむというのも、ヨーロッパならではの催しだなあと思いました。
ほとんどが常連と見えて、みんなシートから毛布から大量の食べ物、クーラーボックスにワインやビール、椅子や国旗まで用意周到でびっくりしました。
かくいう我々もゴザにワインにお菓子など大きなカバンに詰めてえんやこりゃ持参した甲斐あって、すっかりいい気分で初秋の夜を音楽と共に楽しみました。
後半はロイヤルアルバートホールからの中継で、イギリスの各地のパークコンサートが一致団結して威風堂々や国家の大合唱で幕を閉じました。・・・今朝は喉がカラカラです。
  

話をオペラに戻して、フィガロの結婚はモーツァルトのオペラの中でも傑作とうたわれるだけあって、ひっきりなしに名演が生まれているといても過言ではないでしょう。その中でも人気のオペラ映画がありますが、これは舞台でオペラを鑑賞するのとは異質の、映画版オペラです。キャストは豪華大物歌手勢ぞろい、オーケストラはウィーンフィル、指揮はカール・ベーム、これ以上ないくらいの贅沢品です。1975年に音声をとり、翌年歌手達が口パクで演技をして映像がとられました。
オペラの演劇的要素を重視する最近の傾向のさきがけではないでしょうか。
もちろこういうやり方は、純粋なオペラファンの好まないところでしょう。しかし何はともあれこのオペラ映画は単純に楽しめますので、入門にはもってこいです。

題名が長くてすいません。


さて、モーツァルト生誕250周年にあたる今年は、世界どこでもモーツァルト一色ですね。そこで今回の週刊classic、vol.13ではモーツァルトの代表作であるオペラ「フィガロの結婚」を取り上げて、二週にわたってオペラ入門ということにしてみました。

私も実はオペラの中ではこれが一番好きです。出てくる曲出てくる曲個性的なアリアで飽きさせないし、何とも古典的な設定も好みです。
勧善懲悪なハッピーエンドはまるで水戸黄門をお茶の間で見たかのような平和な笑いを誘い、それでいて吉本新喜劇調のドタバタと、月9に匹敵する恋のからさわぎでもって十分満足させられつつ、かつ古雅でゆったりした気分になれるからです。
こんなひとつで何回もおいしい作品というのは、やはり只者の仕事ではありません。モーツァルトならではの手腕です。


オペラに関しては次号でも書くのでこのへんにして、28日の月曜日の話に変わりますが、ロンドンのロイヤルアルバートホールにて目下開催中のプロムスで、日本人作曲家の藤倉大氏の新作世界初演を鑑賞して参りました。

Crushing Twisterという題の、DJによるいわゆるターンテーブリズムをテーマにした曲でしたが、こんな興味をそそられる現代曲初演に立ち会ったのははじめてでした。
非常に実験的で難解な試みであり、しかし氏のプログラムノートに記された作曲経緯は純粋に新しいモノへの喜びにあふれているようで、一体どんな形に仕上がっているのか、私達夫婦のみならず観客中がわくわくしていました。
もっとも一番興奮していたのはその日の昼公演でプロムスデビューを飾ったBBCコンサートオーケストラの首席客演指揮者チャールズ・ヘーゼルウッドでした。これまでにいくつもの新作世界初演をやってる人でありながら、今回の藤倉氏の作品を力強く説明し興奮気味に紹介していたので、この作品が演奏家にとってどれほど意義深く魅力的な作品であるか分かりました。


オーケストラを3つに分割し、最もこぶりなのを真ん中に配置し、リアル音源とします。後の二つをそれぞれ左右に配し、二つのターンテーブルとなぞらえます。そしてDJとしての指揮者。
つまり、ターンテーブルとなる左右二つのオケが奏でるものは、真ん中のリアル音源オケが先に奏でた音楽をスクラッチしたものというわけです。
 
DJが既存の音楽をスクラッチして違う音楽を生み出すあの驚異的な技は、盤を自在に操る完璧な手業とそれを統括する音楽性の産物。何が聴衆を唸らせるかって、既存の音楽である盤から自分の感覚で瞬時に求める音を選び出す能力、リズム感も反射神経も何もかもすごいと思わせるテクニック!・・・ところがオーケストラの場合指揮者はその能力は発揮できません。指示を与えれば、約束どおりオケが音を出してくれるからです。そのかわり、指揮者の場合は二つのターンテーブルに加えリアル音源の方まで、一音残らず全て自分で指示を出しているのです。どっちもすごい・・・
しかしどっちがすごいかはどうでもよいし、こんな風にDJとオーケストラを直接比較しても意味はないのです。ですから、実際にDJのスクラッチを目の当たりにして「おお!神業!」と唸るような「目に見える楽しみ」を期待していた観客は肩透かしを食ったでしょう。
ポイントはスクラッチという概念から新しい発想を得てオーケストラ曲を書いた、というところにあるのです。そして見事にそれをやってのけた藤倉大、ということなんです。
非常におもしろく拝聴しました。
正直なところ、聴衆はあっけにとられた感にあふれていましたので、大喝采の大反響とはいきませんでしたが、それで音楽史的に成功だと思います。聴衆が瞬時に食いついてこられる“新しいモノ”なんて、おもしろくないですよね。




新しい可能性が日々様々なジャンルで試みられる今日、それにわくわくしながらも、一方で「でもやっぱりクラシックが一番ね」とお茶をすするのが好きなわたしたち。
ところで開演前にハリー・ポッターのスネイプ教授を見かけましたが、彼はあの演奏会どう思ったのでしょうね。
21.Aug.2006
天才とは。
天才とは何でありましょう?
凡人である私にとっては、しょっちゅう「天才だ!」と思える人がいますが、実際天才というのは、100年に一人くらいの割合でしか現れないレアな人のことでしょう。

今週の「週刊classic」で取り上げたピアニスト、フランツ・リスト。彼の才能を否定できる人はいないでしょう。
88もの鍵盤を自在にあやつり、すさまじいテクニックで見事な音楽を奏でる魔術師。
彼には、いかなる曲をも初見で弾きこなしたという伝説があって、その能力を超える者は目下いないとされています。昨年ブラームスのスケルツォを毎日せっせと練習していた折、この曲をブラームスがリストに見せた時、目の前で完璧に弾きこなして「いい曲だ」と言ったという記録を思い少し切なくなりました・・・



カンパネラといえば、やっぱりアンドレ・ワッツでしょう。1946年生まれのアフリカン・アメリカン。蜘蛛のような長い手足でカンパネラを爽快に弾ききってしまう彼を、母親の影響で幼い頃にTVで見た記憶があります。
何度聴いても素晴らしい演奏です。

リストは、超絶技巧をマスターしたものだけが、その上にある美しいものを表現できるというようなことを言っています。
ワッツこそそれを実地でやってのけた達人でしょう。


さて、この驚異的な曲を、堂々と我流で飲み込んでしまった人が、フジ子・ヘミングでしょう。
こうなれば、リストが云々以前に、共感者を得た人の勝ちですね。そもそも音楽の解釈は自由であるはずですから。
何よりジャケットがかわいくて、欲しくなるCDですね。この人の画才はマル。
今週の週刊classicは、8月15日発刊ということで、ベートーヴェンの「月光」と、それにまつわる特攻隊員のエピソードを紹介した。この実話をもとにした小説「月光の夏」を数年前映画で見た。


戦争という極限状態の中では、命の尊厳は侵される・・・、これほど恐ろしいことが他にあるだろうか。
自分の意思でないところへの忠義のために、自らの命を捧げなければいけない。
なんと馬鹿げた話・・・しかしそれが現実だったという、悲しい話である。


ベートーヴェンの「月光」ソナタは、戦争とは何の関係性ももたない、彼の初期の代表作。
後の円熟を増した渋みのある作品と比べると、生来の激しい気性とナイーヴな音楽性の融合がむしろダイレクトに感じられる作品である。死を決意し有名な遺書を書き残す前年に書かれた。

世間と精神的な隔たりを持っていたであろう天才芸術家は、自分のあふれる情熱、怒りを、すべて音楽にした。

人生=音楽
生きること=音楽
命=音楽

何もここで、「月光」と戦争を安易に結びつけようなどとは思っていない。
まして、「生きること」について語れる素地など何もない平和で凡庸な私の人生である。
ただ、孤高の芸術家の生きた証を聴きながら、昔まだ20歳そこらでいろんな思いを胸にその曲を弾いて、天に昇って行った青年のことを考えてみる。



一部の先人の犯した最も愚劣な罪をよく省みて、平和を考えようと思う・・・
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